「甲南大学らしさ」とは、どんなものでしょう。国際都市・神戸にあること。人との触れあいを実感できるキャンパス。自由で洗練された学生たちの雰囲気。どれもが、たしかに甲南大学の特長だといえます。そして、これらが培われてきた背景には、甲南学園の創立者である平生釟三郎の教育理念がありました。「人格の修養と健康の増進を重んじ、個性を尊重して各人の天賦の特性を伸張させる」という彼の掲げた理想はいまも色あせることなく、むしろ現代の大学教育においてますます重視されている視点です。そうした平生精神を、あらためて3つの指針にまとめたものがKONAN U.WAYなのです。甲南大学では、学生はもちろん教職員すべてが、このKONAN U.WAYに基づいて自己の成長と飛躍をめざしています。
Policy of KONAN
甲南大学の教育方針の根本には「人格の修養・健康の増進・個性の尊重=天賦の特性の啓発」というプリンシプルがあります。
「ヨキカラダ ヨキ考エ 少シデモ 世ノ中ニ ツクシウル 人間ニ ソダツテ モライタイ」。そのために「画一的ナ 教育ヲ サケ 個々ノ 人間ノ 才能ヲ ノバシウル」教育。これこそが、創立者・平生釟三郎や、創立に深くかかわった伊藤忠兵衛(伊藤忠商事)など錚々たる人物たちから現在に伝わる、そして現在に活きる教育理念です。
これをKONAN U. WAY (Becoming a Person the World Can Trust)として三つの指針にまとめました。
KONAN U.WAYとは、甲南大学に学ぶ学生、甲南大学に奉ずる教職員が常に心に留めるべき共通の教育理念であり、自己の成長と飛躍を図るために日々参照すべき行動指針です。
この三つの指針で、可能性を無限大の未来につなげます。
個性あるキャリア創生力を涵養する
他者を敬い、礼儀・マナーを重んじ、健全な常識を培い、人格を形成するとともに、一人ひとりの天賦の特性を活かし希望を創り生みだし、その目標にむけ日々努力する。
つなげる力・つながる力を育む
共に学び、成長する場を大事にし、リーダーシップ(人をつなげる力)・共働互助(人とつながる力)を培う。
正志く 強く 朗らかに
周囲環境のどのような変化にも志を貫き大局の打算を誤らず、的確柔軟に対応していくよう心掛ける。
KONAN U.WAYという明確な軸があるからこそ、たしかに実現できる将来への夢。一人ひとり個性や才能を尊重することで、どんどん広がっていく無限大の可能性。そんな甲南大学ならではの学びで実現する未来こそがKONAN INFINITYです。
History of KONAN
KONAN U.WAYの原点となる教育理念を掲げた平生釟三郎。彼はどのような人物だったのでしょうか。1866(慶応2)年に武家の三男として誕生した釟三郎は、明治維新によって生家が困窮するなか、勉学への情熱を失うことなく苦学を続け、奨学金や周囲の支援によって高等商業学校を卒業します。卒業後は教師や官吏の職を経て実業家として活躍し、経営難にあった東京海上保険や川崎造船所の再建を手がけます。たとえ逆境であっても、正義感と強い意志を失うことなく、つねに明るく生きる。そうした姿勢が、彼の原点でした。
「教育こそが日本をつくる」という信念をもつ平生釟三郎は、つねに理想の学校をつくる夢を育んでいました。そして、日本最大の経済都市であった大阪と東洋最大の港湾都市であった神戸、その中間にあたる住吉村での学校開設に奮闘します。
資金調達などの困難を乗り越えて1911(明治44)年に甲南幼稚園を、翌年に甲南小学校を創立。東京海上保険のロンドン支店監督だった時代に英国式パブリックスクール(私立中高等学校)のリベラルな教育方針に感銘を受けた経験から、画一的な詰め込み教育ではなく、一人ひとりの才能や個性を重視する人物教育の実践を開始するのです。後に大臣として内閣入りした時(1936年)にも、商工大臣ではなく文部大臣にこだわったという逸話からも、その教育への情熱が感じられます。
苦学生として周囲の援助や支援によって学業を遂げた平生釟三郎は、その感謝の念を生涯忘れることはありませんでした。甲南小学校創立と同時に、かつての自分と同様の境遇にある学生たちを援助する奨学制度「拾芳会」を私費によりスタート。女子の高等学校への進学にも率先して理解を示し、学問を志す女性のために甲南高等女学校(1920年)の設立にも協力しました。
また、貧しい者でも高度な医療を受けることのできる施設として甲南病院(1931年)の設立にも奔走しています。
社会的な立場が違ってもお互いを尊重し、力をあわせて助けあう社会。人と人とをつなげ、つながる、アットホームな未来こそが彼にとっての理想だったのです。
フランス、ドイツ、アメリカといった欧米諸国を視察するほど海外への意識が高かった平生釟三郎は、1935 (昭和10) 年、70歳という老齢ながら公式の経済使節団長としてブラジルを訪問します。ブラジルにおける日系移民者たちの経済環境を改善するための事業を次々と推進すると同時に、根底となる二国間の信頼関係育成にも尽力。日本とブラジルの貿易額を10倍に拡大することなどに成功し、その功績によってブラジル政府から勲章までも授与されました。
世界に通用する人物とは、たんに知的レベルの高い人物ではなく、健康かつ健全で、つねに他人を尊重できる個性豊かな人物であること。この教育理念の正しさを、自身の行動で証明したといえるでしょう。